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2024年1月21日 (日)
黒柳徹子さん

黒柳徹子さんがニューヨークタイムスに大きく紹介されました。
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(翻訳 澤良世さん)

土曜プロフィール
トークショーのスターとして認められるのには年齢は障害にならないことを証明した女性
黒柳徹子は日本でもっとも著名なエンターテイナーのひとりとして70年も活躍し、90歳のいまもかくしゃくとしている。
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黒柳徹子(90)、今月初め、東京の「徹子の部屋」のセットで。彼女のトークショーは1976年にはじまり、昨年秋に、同一司会者による番組の最多放送回数記録でギネス・ワールド・レコードより認定された。

 モトコ・リッチ
東京からのレポート
2024年1月19日

 今週初め、東京都心にあるテレビ局のスタジオで、黒柳徹子(90)は歩行器を押しながら、アシスタントの手を借りてゆっくりと録画舞台への3段の階段を上がり、クリームがかったベージュのエンパイア・アームチェアに座った。

スタイリストは彼女が履いていた特注の頑丈なブーツを脱がせ、ヒールの高いミュールを履かせた。メイクアップアーティストが刷毛で頬紅をさし、燃えるような赤い口紅を直した。美容師は彼女のトレードマークである玉ねぎ型のヘアスタイルを整え、別のアシスタントは刺繍入りの黒いジャケットを糸くず取りローラーで整えた。これで90歳の黒柳は、12,193回目の番組収録の準備が整った。

日本で最も著名なエンターテイナーのひとりとして70年にわたり活躍する黒柳さんは、1976年からトーク番組「徹子の部屋」でゲストにインタビューを行っており、昨年秋には同一司会者による番組の最多放送回数記録でギネス・ワールド・レコードを達成した。映画、テレビ、音楽、演劇、スポーツなどの分野で活躍する日本の著名人だけでなく、メリル・ストリープやレディー・ガガなどのアメリカ人スター、イギリスのフィリップ王子、ソビエト連邦の元指導者ミハイル・ゴルバチョフなども黒柳さんのソファを訪れた。黒柳さんは、ゴルバチョフは今でもずっと好きなゲストの一人だという。

「100歳になるまで続けたい」と冗談を言う黒柳さんは、早口でしゃべり、デートや離婚など、そして最近では死の話題についてゲストから聞き出すのがうまいことで知られている。韓国系カナダ人の俳優で歌手のアン・ヒョソプ(28)が今月番組に出演したように、彼女が若い世代を取り込もうと努力しているときでさえ、最近のゲストの多くは加齢による病気や同業者の死について語っている。
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テレビモニターに映っているのは、黒柳さんとゲストの歌舞伎役者六代目中村勘九郎。

 第二次世界大戦を生き延びた彼女は、日本のテレビ界で早くから俳優としてブレイクし、その後、独特のスタイルを持つ好感の持てるインタビュアーとしてニッチを切り開いた。単にインタビューする人物になるのではなく、自らをキャラクターに仕立て上げることで、彼女は「タレント」として日本のパフォーマーのひとつのジャンルを確立した。英語の「タレント」という言葉は、日本では、毎日テレビで観ることのできる身近な存在だ。
イェール大学で東アジア文学と映画を教えるアーロン・ゲロウ教授は、「ある意味、彼女は日本におけるテレビ史の体現者のようなものだ」と語った。

 ニューヨーク・タイムズ紙の土曜日のプロフィールから

  • カンタベリー大主教:世俗化が進む世界で8500万人の英国国教会の精神的リーダーとして奉仕することは、ジャスティン・ウェルビーが直面する課題の一つに過ぎない。
  • モザンビークの物語を語る:モザンビークで最も影響力のあるコンテンポラリー振付家・ダンサーのパナイブラ・ガブリエル・カンダが、複雑なモザンビークの近現代史を、動きのある身体を使って芸術的に表現する。
  • 変革への確かな声:トーマス・メイヨーは、オーストラリアで先住民に議会での発言権を与えようとする取り組みの冷静なチャンピオンだった。失敗の後、彼は声を大きくするのだろうか?
  • 過去を引きずる:ダン・カーターは17年間、路上にいた。17万5千人の人口を擁するオンタリオ州オシャワ市は、過剰摂取と経済的余裕のなさに苦しんでいる。

 黒柳さんは、何よりもその長寿がすばらしいが、圧倒的に男性が多い環境の中で、先駆的な女性でもあった。

1972年、にバラエティ番組の司会者として駆け出しの頃、質問をすると「黙っていなさい、と言われた」と。その日のうちに3つのエピソードを収録したスタジオ近くのホテルでの2時間近いインタビューで、彼女は振り返った。
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1958年、NHKのスタジオで。圧倒的に男性が多い環境で、彼女は先駆的な女性だった。
彼女は聴覚障害者を支援し、ユニセフ(国連児童基金)の親善大使でもある。しかし、彼女の先駆的なキャリアにもかかわらず、女性の地位向上にはほとんど貢献していないと言う批評家もいる。東京大学の林香織教授(メディア論)は、「彼女は豊かで古き良き日本の象徴である」とEメールで書いている。

インタビューの中で黒柳さんは、多くの部屋で唯一の女性であることの屈辱をくどくどと語ることはなかった。彼女は、30代から40代にかけて、テレビ業界の男性たちからデートに誘われたり、結婚を申し込まれたりしたと語ったが、それらの申し込みは、あまりうれしくなかったと暗に伝え、今の時代なら冗談としても不適切と思われるようなことを言われたという。

男の社会関係に 「封建的」要素が残る社会で、彼女は女性たちに、自分のキャリアを自力で切り開くようアドバイスした。「女性だから何もできないなんて言わないで」と彼女は言った。
母親になる準備として子供番組に出演したかったからテレビ界に入ったというが、結婚も出産もしなかった。「ユニークな仕事では、独身でいるほうがいい。その方が居心地がいいのです」と続けた。
1981年に出版された彼女の最初の回想録『窓ぎわのトットちゃん』は、東京の一風変わった小学校に通う幼少期を描いたもので、全世界で2500万部以上を売り上げている。昨年秋には、第二次世界大戦中の日本での過酷な状況を綴った続編を出版した。当時、15粒の炒り豆しか食べられなかった日もあり、東京上空の空襲から身を守るために母親と一緒に防空壕に身を潜めていた。
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番組の始まる前に、黒柳さんのトレードマークである玉ねぎ型のヘアスタイルを整える美容師。
彼女は、ロシア侵攻後のウクライナの映像を観て触発され、続編を書こうと思ったという。黒柳さんは、戦時中、母親が一家を東京から北日本に疎開させた幼少期の記憶を掘り起こした。
「戦争が悪いことだとは言っていないけれど、戦争を体験した子どもがどんな気持ちだったかを理解してほしい」と彼女はいう。
黒柳さん自身、子どもらしさを失わない。インタビューのために、彼女は特徴的な玉ねぎヘアのお団子をやめ、アッシュブロンドのシャーリーテンプル風カーリーボブのウィッグの下に自分の髪を隠し、巨大な黒いベルベットのリボンで固定した。
それはすべて、彼女が何十年にもわたって培ってきた、脅威を感じさせない人格の一部なのだ。東京にある専修大学経営学部の根本久美子教授(ジェンダー問題を専門とする)は、「彼女はちょっと愛らしくてかわいい」と言う。「彼女は何かを批判したり、政治的なことを持ち出したり、否定的なことを言ったりはしません。」
そのためか、ゴルバチョフは別として、黒柳さんは政治家とのインタビューを避けてきた。「彼らには本当のことを話すのは難しすぎる。そして、彼ら全員にいい顔をさせることはできない。」
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撮影現場でメイクアップアーティストのバッグに入れられていた若き日の黒柳さんの写真入りバッジ。
アメリカの画期的な女性記者であるバーバラ・ウォルターズと比較されることもあるが、黒柳さんはインタビュー対象者に無理強いすることはない。プロデューサーは事前にゲストが避けたい話題や進めたい話題を尋ね、黒柳さんはそれに応じる傾向がある。

今週の収録では、歌舞伎役者の六代目中村勘九郎をゲストに迎えた。勘九郎さんの父も祖父も徹子の部屋の常連だった。中村勘九郎さんは、テロップが流れる前に家族についての質問を予期していたようだ。

黒柳さんは、「私が一番大切にしているのは、お客さんに『この人、変な人だな』『悪い人だな』と思われないようにコントロールすることです。できれば、"あ、この人、いい人だな "と思ってもらいたいんです。」

2001年にゴルバチョフ氏が彼女の番組に出演したとき、黒柳さんは政治的な話題を避けた。「ゴルバチョフ氏にとっては重要なことだったでしょう」と彼女は言う。でも、黒柳は彼の好きな詩人について尋ねた。すると彼は19世紀のロマン派詩人ミハイル・レルモントフの『帆』を朗読した。「日本の政治家にこのような質問をして、あなたと同じようにできる人がいたらどんなにいいでしょう。もし一人でもいたらすばらしいと思います、と私は彼に言いました。」
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黒柳さんは「100歳まで続けたい」と冗談を言う。
彼女は年齢を重ねるにつれ、49年間番組を続けてきたテレビ朝日の撮影現場で直面する、同世代の課題に率直に向き合ってきた。例えば、黒柳さんは "スキヤキ "の作詞者である永六輔さんに、2016年に亡くなる前にインタビューした。彼は車椅子で登場し、明らかに進行したパーキンソン病の症状を見せていた。黒柳さんは率直に病気のことを話した。
京都にある同志社女子大学リベラルアーツ学部の影山貴彦教授(メディア論)は、「お年寄りは彼女の存在に間違いなく励まされています」という。
話し方が明らかに遅くなった黒柳さんは、高齢の視聴者に感動を与える仕事を続けたいという意欲について語った。「身体に問題がなく、頭もまだ働く状態で100歳までテレビに出演できるということを示すことができれば、それは面白い試みだと思います。」

 

 

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